大和を巡る旅(7)

古賀 政男

2006年02月18日 00:46

昭和20年アメリカ軍は沖縄上陸、奪回の命を受け「天壱号作戦」を受け入れた第二艦隊では4月5日有賀艦長の「総員集合、前甲板!」の下令で集合、チーク材で張り巡らされた通称「大和デッキ」に集合、訓示を聞いた。
同夜、「酒保開ケ!」の号令で各部署で出撃前の酒宴がもようされた、21時能村副長の「今日はみな愉快にやって大いによろしい、明朝はまた早いからこれで辞めるように」との艦内放送で速やかに酒宴止む。
4月6日徳山港入港、よく言われる「片道特攻」ではなく、基地タンクの底に残った重油を帳簿外として大和には注油、少なくとも往復分の燃料は確保されていたようである。
同日連合艦隊司令部より草鹿参謀長が大和を訪れ作戦命令を説明するが第二艦隊各艦長から意義噴出、しかし草鹿参謀長の「一億特攻のさきがけに」との言葉に第二艦隊伊藤盛一司令長官の「我々は死に場所を与えられた」との言葉で水上特攻を決意、同日徳山港を出航、しかしすぐに敵潜水艦の索敵を受けるが豊後水道を通過していくのである。

1/10大和を上部から見ることが出来た、11日1/1大和の通称大和デッキを歩いてそこで千名余の将兵が有賀艦長の訓示を聞いたのだと思うと感動したものだが、艦首部分からのショットをよく見るが艦尾部分からの大和を上方から見られるのはこの「大和ミュージアム」か当時の飛行機しかないのである、三千名余の将兵が4月5日に交わした杯、戦果の期待であったか守るべき人への別れの杯であったか、今では知る由もありません。


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